「藍色」の由来にもなった藍について、薬学・歴史の観点からまとめてみた。

人類最古の染料「藍」は薬としても機能していた
色鉛筆やクレヨンの中にある「あい色」は、染料としての「藍」から名づけられたものです。身近な「藍」といえば、ジーンズの素材として知られる「デニム」で、藍は生地のたて糸を青く染めるために使われています。また、「青は藍より出でて藍より青し(「出藍の誉れ」とも)」という有名なことわざがあります。これは荀子(古代中国の思想家。孟子の「性善説」に対し、「性悪説」を説いた)の言葉「染料の青は藍の草から取るが、その色は藍の草よりも青い」を師匠と弟子の関係にあてはめ、弟子が師匠の能力を越えることの例えとされています。
荀子の生きた時代は戦国時代末期ですから、紀元前4~3世紀には藍が当たり前のように使われていたことがわかります。また、紀元前2000年頃と思われる、藍染の麻布が巻かれた古代エジプトのミイラも見つかっています。
藍は人類最古の植物染料であると同時に、防虫や防腐、薬としての効能効果も期待されており、洋の東西を問わず重用されていました。これは日本も同様で、染料としてはもちろん、さまざまな用途に用いられていたようです。そこで日本人の生活になくてはならなかった「藍」の歴史を紐解いてみました。
卑弥呼も身に纏っていた?「藍染め」の衣装
日本で藍が使われるようになった時期には諸説ありますが、3 世紀末に残された『魏志倭人伝』によると、「正始4 年(西暦243 年)、倭国から「絳箐(こうせい)の縑(かとり)」が魏王に献上された」とあります。「絳箐(こうせい)の縑(かとり)」とは、赤や青に染めた絹織物のことで、これが記録に残る日本最古の藍の染め物だと考えられています。ただし、この時使われた植物は、日本に自生していた「ヤマアイ(トウダイグサ科。学名:Mercurialis leiocarpa)」のようです。
現在使われている藍は「タデアイ(学名:Polygonum tinctorium Lour.(Indigo plant)」で、もともと日本には自生しておらず、6世紀頃、中国から日本へ伝わったとされています。タデアイはインドシナ原産、タデ科の一年草。秋になると紅色の小花を多数つけ、果実は黒褐色の痩果(そうか)がつきます。『出雲風土記』(733 年)は、藍が栽培作物であることを初めて記した文献ですが、このことから遣唐使により渡来したものとも考えられます。なお天平勝宝4 年(752 年)、大仏開眼会で用いられた「縹縷(はなだのつる。藍染めの絹紐を巻き束ねたもの)」が正倉院に残っています。
▲アイの葉
日本最初の漢和薬名辞書にも掲載
平安時代は、まだ染色にヤマアイを使った「青摺(あおずり)」が主流だったようで、『延喜式』『枕草子』『源氏物語』『栄華物語』に記述が残っています。また、皇室の「新嘗祭」に用いられる小忌衣の染め物は、今でも青摺で染めるという伝統が守られているといいます。
一方、タデアイは薬草としても用いられていました。当時の本草薬名辞典『本草和名』には、藍の実が解熱剤として記載されています。この薬草辞典は、大医博士・深根輔仁が醍醐天皇の勅命を受け、延喜年間(901~923年)に著した日本最初の漢和薬名辞書。中国の本草書に収載されている薬物について、その別名、和名、産地などが記されています。
なお、中国で編まれた現存最古の本草書『神農本草経』(著者・成立年次不詳。後漢期頃に成立したと考えられる)にも藍(藍実)が紹介され、そこには「体内に入った諸処の毒物を解することができる」「長く服用すると年をとっても白髪になりにくく、だんだん身の動きが軽くなる」「解熱作用がある」とあります。藍は漢方薬として、中国の家庭ではいまだに常備されているほど親しまれているそうです。
ちなみに平安時代末期の武将・奥州藤原氏由来の「金銀字一切経」、平氏が一門の繁栄を祈り、長寛2年(1164年)厳島神社に奉納した「平家納経」といった国宝経典の中には、「紺紙」を用いたものが少なくありません。「紺紙」とは藍で紺色に染色した和紙で、金泥・銀泥で写経や仏画を記すために使われました。これらの写経本が現存しているのは、藍の持つ防虫効果が機能していると考えられています。
武士が愛用した「褐色(かついろ)」
武家社会が確立した鎌倉時代以降、紺よりもさらに濃い、黒色にも見える濃紺の藍染色は「褐色・勝色(ほかに葛色など)」と呼ばれ、武士に愛好される色となりました。現代で「褐色」といえば赤味がかった茶色やこげ茶色を意味しますが、中世から近世の日本では濃い藍色を指す言葉だったそうです。
武士が好んで身に付けたのは、褐色は「かちん色」とも読まれ、その音が「勝ち」に通ずるところからだといいます。そのため、軍記物には「褐色威」「褐色の直垂」といった表記がよくみられます。また武士は、危険と背中合わせの生活を送っていました。戦に出れば命を落とすことはもちろん、負傷する可能性もあります。そこで傷の化膿を防ぐ殺菌効果、止血効果があるとされた藍染の下着を着ていたようです。なお、現在でも剣道着、袴など武道の稽古着などには藍染が施されています。
江戸時代は藍染最盛期
戦国の世が終わりを告げ、平和が訪れた江戸時代(1603~1867年)になると、藍染をはじめとして、藍の利用はますます盛んになります。その最たるものが「阿波藍」です。阿波藍の歴史は古く、徳島の山岳地帯で阿波忌部氏が織った「荒(藤、楮、栲などの木の皮の繊維で織った、織り目の粗い布。平安時代以降は麻織物のことを指す)」を染めるために、栽培が始まったと伝えられています。阿波藍を記した最古の資料「見性寺記録」によると、宝治元年(1247年)に見性寺の開祖・翠桂和尚が藍を栽培して衣を染めたとあります。また吉野川流域の肥沃な土地がタデアイの生育に適していたため、藍の栽培は吉野川下流域にも広がっていきました。「兵庫北関入船納帳」には、文安2年(1445年)、多くの葉藍が阿波から兵庫の港に荷揚げされた記録が残っています。
戦国時代、数多の武士に「勝色」が支持されたことから、阿波では藍の生産が本格的に行われるようになります。天文18年(1549年)には、三好義賢(阿波守護・細川持隆の被官)が上方から呼び寄せた青屋(藍染屋)四郎兵衛が「すくも(乾燥させた葉藍を発酵させてできた天然の染料)を使った染色技術とすくもの製法を伝えました。
天正13年(1585年)、徳島藩主となった蜂須賀家政は、藍の生産を保護・奨励します。藍の品種改良や効率的な栽培と加工により、阿波の藍づくりは隆盛を極めます。藍作りに多大な貢献をしたため、一説には蜂須賀家が入国した際に藍を持ってきたとも伝わっています。その後、徳島藩は、藍によって「阿波25万石、藍50万石」とうたわれるほどの富を得たのです。
江戸時代半ばになると、庶民から上級階級の着物、さらには、寝具や暖簾、手ぬぐいに至るまで、藍はあらゆる衣装や雑貨を染めるために活用されます。そして、暮らしに欠かせない色となっていきます。
また、『和漢三才図会』(正徳2年[1712年]年に成立した、105巻からなる江戸時代の図説百科事典。寺島良安著。和漢古今の事物を天文、人物、器物、地理などに分類、図入りで解説している)の中に、「藍の実には諸毒を解し、五臓六腑を整える薬効効果がある」と記されています。江戸時代の人は、藍葉や藍種をふぐ中毒の解毒、解熱用(感冒薬)として使ったことがうかがえます。また昔の旅人は藍葉を携帯し、食あたりや熱冷ましに用いていたそうです。
日本人の暮らしに生き続ける「ジャパンブルー」
明治後期になると、化学合成された人造藍の輸入が増大し、日本の藍づくりは衰退していきます。それでも藍染が絶えることなく受け継がれてきた理由には、染料としてだけではなく、多彩な機能を有しているからだと思われます。
というのも、ここまでも述べてきたように、解毒や殺菌・抗菌、止血、防虫剤として使われてきたことに加え、藍で染めた肌着は冷え性や肌荒れ、あせもなどに効果があるとされてきました。昔から伝わる「藍染の風呂敷に包めば、本などを虫に食われない」「藍染の足袋を履くと水虫にならない」「藍染を着ればヘビなども近寄らない」といった話は、当時の生活の知恵だったのでしょう。また藍染は糸を強くすると言われています。昔の火消し装束にも用いられていたことからも、その性質がうかがい知れます。
藍で染められた紺色は「ジャパンブルー(Japan Blue)」と呼ばれています。これは明治期に来日したロバート・ウィリアム・アトキンソン(イギリス人の化学者。お雇い外国人)が、藍染による美しい青が印象に残ったことから、「ジャパンブルー」と名付け、賞賛したことに由来しているそうです。
薬剤師が知っておきたい、生薬としての「藍」の効能
近年、日本の伝統的文化が再認識される中、その美しさだけでなく、生薬としての効能などが注目されています。薬用植物や生薬への関心が高まっていることもあり、「新訂 原色牧野和漢薬草大図鑑(北隆館発刊)」のような書籍を手に取る人も多いようです。ここにも、「生藍の葉、乾燥葉、種子の生および煎じ液が、消炎、解毒、止血、虫さされ、痔、扁桃腺炎、喉頭炎に効果あり」と記されています。
参考)藍の情報サイト【藍】~藍のある暮らし、はじめよう。~ 「藍を食す-薬草としての藍」
外国人をも魅了した青を生み出す天然藍は、我々の暮らしを豊かにし続けているのです。
藍の持つ効能は、薬剤師として知っておきたい知識かもしれません。最近はお茶やサプリメントなど「食べる藍」を加工した商品も増えているとのこと。興味のある方は、ぜひ一度調べてみてはいかがでしょうか?