小石川植物園を東大教授と巡って訊いてきた話 精子発見のイチョウ編 – 薬プレッソ

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小石川植物園を東大教授と巡って訊いてきた話 精子発見のイチョウ編

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小石川植物園内を散策していると、薬園保存園や分類標本園を通り過ぎたあたりに、ひときわ目を引く大きなイチョウがそびえ立っているのが目に入ります。その前には「精子発見六十周年記念」と書かれた、昭和31年に建てられた石碑。小石川植物園を訪れる方の多くが目にしていく、シンボル的な樹木として、植物園の歴史を見守ってきました。万坪の広大な敷地において、「へそ」のような位置にあるこのイチョウは、実は日本人が明治維新以降、植物学の分野において研究力を世界に示した「最初の事例」の標本になった木なんです。
薬用植物でもあるイチョウの生態に関する重要な発見とあって、薬剤師向けメディアである「薬プレッソ」読者にとっては、もちろん興味を惹かれるテーマであることでしょう。案内役は、小石川植物園(東京大学大学院 理学系研究科附属植物園)に所属する邑田仁教授。
取材後、本メディアの編集者が収集した情報を交えながら、この「発見」がいかなるものだったのか、分かりやすくまとめていきたいと思います。

明治維新を経て生き残った大イチョウがもたらしたもの

平瀬作五郎先生による「イチョウの精子発見」の功績は明治29年(1896年)のこと。この発見に至る道筋に思いを馳せるにあたって、ここ小石川植物園に関する経緯を知ることは重要と考えます。

小石川植物園っていつからあるの?

小石川植物園の歴史はそもそも、第5代将軍・徳川綱吉による「小石川御薬園」の創設に端を発します。これは貞享元年(1684年)のことですから、御薬園の創設は今から300年以上も前の出来事。気の遠くなるほど長い時間、この地では多くの薬用植物が育てられてきました。
御薬園を管轄していたのは、江戸幕府の「薬園奉行」。精子発見のイチョウのすぐ西側を境に、西北側を芥川小野寺、東南側を岡田利左衛門が管理。精子発見のイチョウがあったのは、岡田利左衛門の屋敷内だといわれています。
またそもそもなぜ、幕府が御薬園を創設したか? という疑問についてですが、モチベーションは、大きく二つあったと考えられています。

● 中国や朝鮮からの輸入に頼っていた薬の品質が安定せず、薬草を栽培することによって鑑定を助ける
● 国産の生薬を供給する

(参考:我が国における研究植物園の足跡(1)小石川植物園)

このあたりは、薬剤師であれば、非常に強い関心がある領域でしょう。

また、小石川御薬園と並び、「小石川養生所」の存在と、この地を取り巻くエピソードは有名です。
第8代将軍・徳川吉宗の時代に、庶民救済を目的とした「小石川養生所」が御薬園の敷地内に創設されました。診療や投薬も満足に受けられなかった当時の庶民を救済するため、無償で医療を提供するための施設であり、町医者・小川笙船の投書から実現しました。
なお、小石川養生所での庶民救済のエピソードはさまざまなクリエイターの関心をひいています。例えば昨年(2017年)、小石川養生所を舞台とする山本周五郎の小説『赤ひげ診療譚』に基づいたNHK BS時代劇が放映され、広い世代からの関心を再び集めています。
小石川養生所について、より詳しくは下記の記事にて紹介しています。
↓↓↓
「 徳川吉宗公が『小石川養生所』でやろうとしたこと。」

御薬園から植物園への変革

このように徳川幕府の管理下にあった小石川御薬園は、江戸時代から明治にかけて大きな転換期を迎えました。それまでの「御薬園」が廃止され、1868年に東京府の所轄となって以来、1875年に「小石川植物園」と改称されるまでに紆余曲折がありました。現在と同様、東京大学の所有となったのは1877年のことです。
この最中、園内の植物のほとんどは伐られてしまったといいます。現在ある「薬園保存園」には、江戸時代に植えられていた植物の内、植えることが可能なものだけを選んで栽培されています。薬園保存園を主な舞台とする、教授と薬剤師との掛け合いを元にした記事は、下記よりご覧ください。
↓↓↓
「小石川植物園に行って教授に訊いてきた『薬剤師にしか通じない話』【前編】」

このような事情があって、園内のほとんどの植物は明治時代になってから植えられたものであり、長くて樹齢130年〜140年とのこと。
そんな中、精子発見のイチョウだけは、間違いなく「300年」の樹齢を誇ります。

小石川養生所のすぐ側に立っていたことが知られる大イチョウは、それこそ『赤ひげ診療譚』の時代から、御薬園と養生所の姿を見続けていたのですね。

大イチョウが伐られなかった理由

明治維新の際に大イチョウが伐られなかったのには幾つかの説がありますが、有名なものが「太すぎて伐れなかった」という説です。
その説によると、御薬園が幕府から朝廷に移管されるにあたり、「樹木は期限内に伐った関係者のものとする」という取り決めがなされ、ある人が勇んで大イチョウをのこぎりでひき始めました。ところが文字通り「歯が立たず」途中で諦め、だから大イチョウは今も変わらず残っている、というのです。
昭和の初期まではこの時ののこぎりの切り傷跡が残されていたといわれていて、このことから大イチョウについたもう一つの愛称が「鋸歯のイチョウ」。
諸説あるこのエピソードについて、前園長である邑田先生なら真相をご存知かとも思いましたが……「太すぎて伐れなかったのか、誰かがばかばかしいからやめろって言ったのか、それはわからないです」とのこと。伝説の真相を知る方法は、もはや残っていないのかもしれませんね。

このようにして、伐採を免れ「生き残った」イチョウが、明治時代における日本人の偉大な功績に寄与したことは、運命的と言わざるをえません。

平瀬作五郎氏と「イチョウ精子の発見」

明治17年(1884年)に東京大学は帝国大学と改称され、植物園もまた「帝国大学植物園」と改称されました。大イチョウの現在の呼び名となった「精子発見」をもたらす植物学者、平瀬作五郎(ひらせ さくごろう)氏が帝国大学に画工として採用されたのは明治20年(1887年)のことです。
平瀬氏が明治26年に始めた「いてふの受胎期及胚の発生に関する研究」は、それからわずか3年を経た明治29年(1896年)に実を結びます。学問を西洋から輸入していた当時、世界的に認められる日本の研究実績として貴重なものでした。
ですが、そもそも、なぜ「イチョウ精子の発見」は世界にとって重大な発見だったのでしょうか。

コケ植物・シダ植物から裸子植物への変遷と「精子」のこと

植物の生殖は花粉を介して行われる、ということは多くの方がご存知でしょう。一般的な植物は、雌しべの放った花粉が雌しべの柱頭に付着し、そこから「花粉管」を伸ばし、精細胞と呼ばれる雄の核(のようなもの)を送り込むことで子孫を残します。
ここまでは理科の授業で習うような説明であり、必要最小限の一般的知識です。もう少しディープな話として、実際には植物の進化の段階により、生殖の方法には多様性があります。

例えば、ゼニゴケやスギゴケなどのコケ植物は一般に、受精を雨の日に行います。雄株が雨に濡れると「精子」が出て、精子の混じった水がこぼれ落ち、雌株がその水に浸ると、運の良い精子が雌株に到達し受精します。

(参考:NHK for School「コケ植物のふえ方-中学」

(参考:一般社団法人 日本植物生理学会「植物Q&A ゼニゴケ受精」

またシダ植物も同様に、精子による生殖を行うことが知られています。

このように、コケ植物やシダ植物、すなわち「古くから地球上にある植物」は、水の中を泳ぐ精子を持ち、それを用いて生殖を行っていました。一方、進化の過程を先へと進んだ多くの植物は精子を持っておらず、冒頭で述べた花粉を介する方法のように、別の方法で生殖することが知られています。

つまり、植物は進化の過程のどこかで「精子を持たなくなった」ということになります。
そこで、「裸子植物」と呼ばれる植物のグループはまだ進化の中間段階にあることから、「もしかすると、まだ精子を持っている植物もあるのではないか?」と考えられていました。このことが当時、世界中の植物学研究者の間で取りざたされていたのだそうです。

平瀬作五郎氏の研究は、「裸子植物のうち、イチョウは精子を持つ」ということを世界で初めて、顕微鏡で精子の存在を確かめることで明らかにした研究だったのでした。

雌の木からしか精子が見つからないという逆説

平瀬氏の研究において面白いところは、「雄の木からは精子は見つからない」という点です。本来「雄が持つもの」と考えられる精子が、雄の木から見つからない理由として、教授は次のように説明をして下さいました。

春先に雄株から飛んできた花粉が若い銀杏の内部に取り込まれ、およそ4カ月間の成熟期間を経ます。その後、8月末から9月初頭にかけての時期になると、初めて花粉の中に動く精子が形成され、受精します。

このような流れでイチョウの精子は形成されることから、雌の木の銀杏を取り、それを切って顕微鏡で観察することで、初めて精子が見つかるということでした。

(参考:一般社団法人 日本植物生理学会「イチョウ精子発見者平瀬作五郎:その業績と周辺」
(参考:科学映像館「子の中の海 イチョウの精子と植物の生殖進化」

前述したように、世界中で裸子植物の精子を発見するための試みはなされていたのですが、イチョウ精子を発見したのは平瀬氏が世界で初めてでした。その過程については、研究を有利に進めるさまざまな工夫があったようです。

(参考:科学映像館「子の中の海 イチョウの精子と植物の生殖進化」

植物学の足跡、御薬園、養生所−−さまざまな歴史が重なり合う植物園

小石川植物園は、日本の学術において重要な足跡のみならず、江戸時代にかけて徳川幕府が行ったさまざまな政策や取り組みの跡が残る地でもあり、今まさに植物学の研究が進行している現場でもあります。
薬剤師の皆さんは、「世界有数の歴史ある植物園」「漢方の基本である薬用植物を見られる」といった期待を持ってこの地を訪れた時、我々のような業界外の人間には気が付かないような、多くの発見をされることと思います。
しかし、想像以上に重層的に、たくさんの歴史が折り重なるこの植物園を訪れるにあたっては、準備はしてもし過ぎるということはないかもしれませんね。

(文・薪場 竜)

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