小石川植物園に行ってきた
徳川吉宗公が「小石川養生所」でやろうとしたこと。

そこで聞くことのできた話題は、「薬」というトピックを取り巻いて幅広く、また歴史的に見ても興味深い史実が大いに含まれるものでした。
植物園内に残る数々の史跡の中から、今回は「小石川養生所」についてご紹介します。
「養生所」ってそもそも何?
小石川養生所は、別名「施薬院」とも呼ばれます。その名の通り「薬を施し治療する」施設ですが、歴史的に「貧しい庶民を救済する」目的を持った施設をこのように呼び、施薬院の歴史は伝承上、奈良時代にまでさかのぼります。
字義通りにとらえれば、現代で言う「薬局」に近い施設のようにも思えますが、「入院させて、治るまでいてもらう施設だった」ということです。
「井戸を取り囲むような形で母屋が建っていて、入院病棟は母屋に直角にこう連なっていたことが分かっている」と、木の枝で土の上に描かれたのは養生所の見取り図。当時の様子がしのばれます。
徳川吉宗の「目安箱」と小川笙船の投書
1716年から1736年にまたがる「享保」の時代は、徳川吉宗公による改革(享保の改革)が進められた時代でした。
その一環として、享保6年(1721年)、江戸城竜ノ口評定所前に「目安箱」が設置されました。これは庶民から広く意見(=目安)を募ろうと吉宗公が設置したものです。投書の中には幕府の政策に対する痛烈な批判も含まれたそうで、吉宗公はそれらを公衆の面前で開封し、一つひとつに目を通したと言われています。
小石川養生所の設立は、この目安箱への投書によって実現したものでした。
提言したのは町医者の小川笙船(おがわしょうせん)。一握りの裕福な町人しか薬(漢方薬)を手に入れられなかった時代にあって、病を持つ貧民の窮状を見ていた小川笙船は、幕府医師による診療を無料で受けられる施設、すなわち施薬院の設立を提案しました。
徳川吉宗公は施薬院の設立を検討するよう町奉行・大岡忠相に命じ、その年の12月に「施薬院」を設立。医長は提案者である小川笙船自身が務めました。
施薬院は、翌年の享保7年に「小石川養生所」と改名。その後、明治維新によって廃止されるまで、140年の長きにわたり、貧しい病人たちの生命をつないでいたと言います。
吉宗公の計らいと、小川笙船の想いが拓いた貧民救済の道は、その後多くの表現者たちの関心を引き、諸作品を通じて我々の心を動かすことになります。
『赤ひげ診療譚』と小石川養生所
小石川養生所は、そのドラマ性から小説や映画でも度々取り上げられており、1958年に連載された山本周五郎の小説『赤ひげ診療譚』が特に有名です。主人公である「赤ひげ先生」新出去定(にいできょじょう)は小川笙船がモデルの人物と言われており、同作の舞台は小石川養生所なのです。
その後、1965年には黒澤明監督により『赤ひげ』の主題で映像化。主人公である保本登は加山雄三、新出去定は三船敏郎が演じました。同作は黒澤監督にとっての「最後のモノクロ作品」であり、国際的に認められた数々の賞を受賞しています。
さらに、2017年11月にはNHK BS時代劇で映像化。船越英一郎扮する新出去定は「貧しい者には無料で治療を行い、金持ちには薬料を高額で売りつけ、時に幕府権力を巧みに使う清濁あわせ持つ」キャラクターにアレンジされており、小石川養生所の憧憬は時代を通じて受け継がれています。
小石川養生所と、小石川御薬園とのかかわり
吉宗公は、五代将軍綱吉が開いた小石川御薬園を、現在の小石川植物園の敷地全体に拡張した人物でもあります。政策においても「庶民の健康」を大きな軸としていた吉宗公にとって、薬用植物を育てていた御薬園の拡張は大きな意味のある事業だったということです。
薬用植物を育てる御薬園と、貧しい病人を治療させる養生所。
この取り合わせから、「小石川御薬園で採取された薬用植物を、漢方薬として小石川養生所で処方していたのだろうか」ということが気になってしまいますね。
そのところを尋ねてみると、前提として二つの事実が大切だと言います。
まず一つは、小石川御薬園は薬園奉行所、小石川養生所は町奉行所の管轄であり、施設を治める奉行所が違ったということ。
そしてもう一つは、御薬園は幕府の施設なので、基本的には江戸城や宮廷に献上する薬を作っていたということ。
つまり御薬園では、「養生所で生活する庶民に対して処方する薬を作っているわけではなかった」という大前提があるということです。
ところが、御薬園の薬用植物が元となった漢方薬が処方されていたかどうかを問う質問の答えは、「噂によればそんなこともあった」というもの。余剰が出た場合の使い道については、厳しく制限されていたわけではなかったようです。
現代に残る小石川養生所の名残「旧養生所の井戸」
前述の通り、数々の作品で映像化されてきた小石川養生所ですが、植物園内の養生所跡地が、ロケ地として使われたことはありません。
というのも、かつては多数の病人が療養生活を送っていた養生所ではあるものの、現在は母屋が消失しており「旧養生所の井戸」のみが残る地となっているためです。
明治維新に伴う園内の改変、関東大震災、東京大空襲という大きな苦難をくぐり抜け、今も古びた屋根の下にたたずむ井戸。貴重な歴史的遺産を目の前にして興奮した我々は、その出自について尋ねてみました。すると、「あちこちにある井戸の一つだと思います」といういささか拍子抜けする答えが返ってきたのでした。
ところが、さすがは江戸時代から現代に至るまでを見届けてきた井戸とあって、見過ごしがたい逸話がちゃんと眠っていたのです。
関東大震災の折、住人たちの命綱となった「旧養生所の井戸」
1923年9月1に起きた「関東大震災」は、木造家屋が密集していた当時の東京府において、火災による甚大な被害者を出したことで知られ、罹災した家屋は当時の東京府における約4割と言われています。
命からがら避難し、家をなくした3万人もの被災者たちが、ここ小石川植物園へ避難したのです。
被災者たちが飲料水として頼りとしたのが、実は旧養生所の井戸水でした。3万人に及ぶ焼け出された住民たちの生活を支えるインフラとして、吉宗公の時代から受け継がれてきた井戸が役立ったのです。
「無料で診察が受けられる養生所を設立し、庶民を救済する」という吉宗公の想いは、必ずしも理想通りにいかない時期もあったといいます。
ある時期には「薬の実験体にされる」といった風聞が流れたこともあり、なかなか思うように庶民を救うことができなかったといわれる小石川養生所。明治維新を超えてつながれた吉宗公の「想い」は、時代を超え、形を変えて、震災の傷跡を生々しく残す、東京府の住民たちを救うことになったのでした。
関東大震災における住民の生活と、小石川植物園の功績
330年の時を経て、今も世界有数の植物園として認知される小石川植物園ですが、その歩みは順風満帆なものではなかったといわれています。
関東大震災の時期に焼け出されて避難してきた被災者が居住したときは、生きることが何よりも優先された時期。
5万坪にも及ぶ広大な敷地を活かし、一時は3万人もの東京府民の生活の場となっていたといわれています。
やがて被災者の一部は園内の「震災救護所」に生活の場を移し、最後の居住者が退去したのは1925年1月のこと。現在も園内には「大震火災記念石」が残っています。
特筆すべきは、当時、園内の植物を観察して挙げられた著名な成果として、平瀬作五郎の「イチョウ精子の発見」が世界に認められていた時代だったということです。その「発見の地」である小石川植物園が当時の住民の生活を支えていたということは、世界的にも珍しい、誇るべき事例であるように思えます。
関東大震災と、小石川植物園の「危機」
もちろん、植物園の資産を守るという意味では、長期間避難民の生活の場となることによって園内が荒廃するという出来事は大きな「危機」でもありました。
ところが、その後の植物たちの「復活劇」は目覚ましいものだったと教授は語ります。そのエピソードについては、「『植物の世界は分からないことだらけ。』 小石川植物園に40年勤めた分類学者の本音。」で詳しくご紹介していますので、よろしければお読みください。
享保の大飢饉と「甘藷試作跡の地」
小石川養生所とは別の吉宗公の功績として、植物園内には「甘藷試作跡の地」が残されています。甘藷とはサツマイモのことで、吉宗公が享保20年、青木昆陽(あおき こんよう)という御家人に命じ、小石川御薬園と小石川養生所の土地をそれぞれ借り受けてサツマイモの栽培をさせた地を指します。
当時、甘藷は西日本で救荒植物(食料が不足した時をしのぐために間に合わせで育てる作物)として知られており、「米がとれなくても食べていけるように」という計らいから、吉宗公は甘藷の試作を命じました。
青木昆陽は今で言う関東圏に幾つか試作地を設け、その中で、白山の地に設けられた試作地での甘藷栽培が成功。そこから全国的な栽培が始まったことから、現在も「甘藷試作跡の地」として知られているのです。
この功績によって青木昆陽は「甘藷先生」の名で親しまれる人物となります。
この一連の出来事の背景にあるのが、享保16年に起きた「享保の大飢饉」です。凶作に見舞われ、多数の餓死者が出たことの教訓から、吉宗公は甘藷の栽培に国策として取り組んだのでした。
その後、時を経て1921年(大正10年)、青木昆陽の功績をたたえるため「甘藷試作跡」の記念碑が建てられました。
小石川植物園内には、随所に吉宗公の執政が息づき、史跡や記念碑が残されています。東京大学の保有する植物学の研究施設であると同時に、江戸時代にまでさかのぼる歴史的な土地であることは、きわめてユニークです。訪れる方の知的好奇心に応じた発見をもたらす、知的なエンターテインメントの場だと言うことができるでしょう。
遠方からお越しの際はくれぐれも、時間の余裕を持って回られることをお勧めいたします。
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