「植物の世界は分からないことだらけ」 小石川植物園の研究者が知っているすべてのこと。 – 薬プレッソ

小石川植物園に行ってきた

「植物の世界は分からないことだらけ」 小石川植物園の研究者が知っているすべてのこと。

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小石川植物園(東京大学大学院 理学系研究科附属植物園)に所属する教授に園内の魅力を伝えていただいた「小石川植物園に行って教授に訊いてきた『薬剤師にしか通じない話』」。実は園内を回りつつ、教授はこの施設や植物たちに対する「想い」も打ち明けて下さいました。我々の取材に応えて下さったのは、実は第二十代・第二十二代園長を務めたお方。330年もの歴史を誇る小石川植物園において、その永い歴史の10分の1以上を見届けてきたからこその言葉の数々に、思わず圧倒されてしまいました。

植物分類学のエキスパートが発した「わかってることはほんのちょっと」という意外な言葉に至るまでのさまざまなこぼれ話を、植物園の名所とともにご紹介します。

小石川植物園には、あまりご期待に添えるような場所(名所)は無いと思う

「薬剤師が行ってみたいスポット」についてアンケートしたところ、多くの薬剤師さんが小石川植物園の名前を挙げられたことをお伝えして敢行した取材(取材の様子は「小石川植物園に行って教授に訊いてきた『薬剤師にしか通じない話』」をぜひお読みください)。
実は教授は、取材の冒頭でこんなふうに仰っていました。
「小石川植物園には、あまりご期待に添えるような場所は無いと思う」と。
アンケートの回答からは「世界有数の歴史ある植物園に行ってみたい」「漢方の基本である薬用植物を見て、知識を深めたい」というように、日々の仕事に有用な勉強ができるのでは、という期待が見て取れました(回答の詳細は「薬局から植物園まで。薬剤師が一度は行ってみたいと思うスポットとは?」をお読みください)。これらの想いをぶつけたとき、返って来た答えがこのようなものであることは、いささか意外であるように思えます。

ところが、さすがは330年の歴史を誇る小石川植物園とあって、随所に一般人である僕の心をも惹きつける「名所」は存在していたのです。であれば、薬剤師さんにとってもきっと名所であるはず!
ここでは教授にご案内いただいたスポットをご紹介します。

薬園保存園

小石川植物園は1684年、徳川綱吉が五代将軍になった折、外の薬園(麻布御薬園)を移した先である「小石川御薬園」に端を発します。まさにその地に再現された「当時の植物を植えた場所」が現在の薬園保存園であり、一般に公開されています。
マオウやオウレンといった現代の多くの漢方薬に使われる薬用植物が、江戸時代から日本で育てられていたことの証拠を与えてくれる場所です。

植物分類標本園

整然と並んだ植物たちが特徴的な、薬園保存園と並ぶ小石川植物園の主要施設。
東アジアに分布する種を中心に、分類学の見地で多様な植物を網羅するように代表的な植物500種を厳選。限られた面積内でもっとも多くの知見が得られるよう考え尽くされた「生きた植物図鑑」なのだそうです。

小石川養生所跡地

御薬園の設立から38年後の1722年、第8代将軍・徳川吉宗公が幕府の事業として始めた「養生所」の跡地が園内に残されています。
養生所は、富裕層しか満足な医療を受けられなかった時代に、町医者である小川笙船(通称あかひげ先生)の貧民救済の訴願が元となり造られた入院施設で、吉宗公の有名な「目安箱」に投書されたことがきっかけとなったそうです。

また、養生所の近くには井戸があり、入院患者たちのライフラインとして機能していたものが今も残されています。
この井戸ですが、大正時代を迎えた日本で思わぬ活躍をしたそう。そのエピソードについては、独立した記事として紹介しています。

徳川吉宗公が「小石川養生所」でやろうとしたこと。

甘藷試作跡

徳川吉宗が将軍だった1735年(享保20年)、青木昆陽(通称甘藷先生)がサツマイモの栽培を試みた地。試作が成功したことにより、サツマイモの栽培が全国に広がりました。
飢饉も多かった江戸時代、吉宗公は「米がとれなくても食べていけるように」栄養のある作物の栽培を目指していたそうです。

碑は記念のため大正時代に建てられたもの。サツマイモとの関連を訊いたところ、「ただの赤い石。でもサツマイモに似ている」と、やや脱力感のある回答をいただきましたが、偉大な史跡の残る場所であることは確かのようです。

旧東京医学校本館

明治9年(1876年)に建築された、東京医学校(東京大学の前身)の本館。
東京大学に関わる建物の中では現存する最古のものであり、昭和44年(1969年)に本郷構内から小石川植物園の敷地内に移されました。
学校建築の事例として、国の重要文化財となっており、現在内部は博物館として一般に公開されています。

5万坪の広さを持つ敷地内の、最も奥まった場所(日本庭園)に所在しています。

精子発見のイチョウ

御薬園の東南側を管理していた薬園奉行・岡田利左衛門の庭に生えていたことが分かっており、江戸時代から明治への転換期にあってさまざまな樹が伐られた際も残り、命をつないだことで、明治29年の平瀬作五郎による「イチョウの精子の発見」をもたらした偉大な樹木です。

教授が「伐られなかった理由」について語った際は、「太すぎて伐れなかったとか、誰かがばかばかしいからやめろと言ったとか、そういう逸話がある」とユーモア交じりに紹介して下さいました。

小石川植物園に残る史跡の中でも最も有名な樹であり、長い歴史をしのぶモニュメントとして60周年の記念碑が建つほか、100周年の式典も行われたそうです。

これだけの史跡を巡っていくと、「あまりご期待に添えるような名所はない」と冒頭に述べた心中は、いささかうかがい知れなくなってしまいます。

もしかすると、「ただふらりと訪れただけで、何か良いものを見た気になるような場所ではない」ということを戒めるために、このように仰ったのかもしれません。
願わくばこの場所の「風情」が分かる薬剤師に訪れてほしい……という想いを込めて、あえて突き放した言い方をしたのかもしれませんね。

全容の理解は前園長にすら不可能。小石川植物園の歴史と、植物の逞しさ

世界でも有数の植物園の一つであり、徳川幕府時代から330年の歴史を今も受け継いでいる小石川植物園。約4万8千坪という広大な面積に、おびただしい数の薬用植物が植えられています。
そんな植物園を巡る取材の最中、一緒に園内を回った薬剤師さんの発した「すべての植物を把握するのも大変では?」という言葉。
「僕も到底把握しきれていません」と迷わず言い切った教授の語気は、植物の世界がもつ多様さ、複雑さに対し、研究者として謙虚に向き合う心が見え隠れするものでした。

「植物の種類は、温室を入れて4,000種くらい。到底全部は覚えきれない」

取材時は夏の最中、植物が生命力をみなぎらせている時期でした。しかし、今でこそ植物が生き生きと生態系を織り成す小石川植物園ですが、明治から昭和にかけての動乱によって、三度もの大打撃を受けた経緯があるのだそうです。

三度の打撃を受け、再生した植物たち。

「まず明治政府の管轄になるときにほとんどの木が伐られた。関東大震災のときには避難者を受け入れたので、薪みたいにしてかなりの木を燃やした。そして、戦時中に焼夷弾で焼かれた。そこから復活してきて、今の状態」

現在は、復活してきた木の枝が重なり、光を遮ってしまうことで生じる「ものすごい量の枯れ枝」の処理に頭を悩ませているのだとか。
分類標本園をはじめ、新たに植え直した木々もあるものの、切り株からの復活や、鳥のフンを介して撒かれた木の実からの復活など、伐られた植物の復活にはさまざまな自然の経路があると語っていました。

「とにかく日本くらい雨の量と光があれば、まぁ無敵です」

「種から出てきて、死ぬまで見られる」 分類学者にとっての小石川植物園

6人の常勤職員と、3人程度のアルバイトで切り盛りしているという小石川植物園。管理上の問題も多々あると語りますが、この園内の植物たちが生きる環境は、分類学者にとってどのように見えているのでしょうか。

「いろんなものが種から生えて、死ぬまでずーっと、この場所で生きている。季節ごとに見ることで、その植物の一生、全体が分かるんです」

「お花を見せるための公園とかありますけど、花を見るために品種を作って、花が咲く時だけ植えて、時期が終わったらまた別のものに植え替える。そういう管理では植物の一生を見ることがほとんどない。ここではとにかく、枯れて汚いというか、そういうふうになるってことも含めて植物の一生が見られるんです」

人類が植物について知っていることのすべて。

「植物の一生」という言葉には、何かしらドラマチックな響きが潜んでいます。数え切れないほどの植物たちが織り成すドラマを、ここ小石川植物園で40年見続けてきたからこそ、その言葉には重みが宿るのかもしれません。
一見すると物静かに見える植物の世界は、実は常に群雄割拠の戦乱のさなか。限られた領地をめぐって常に争い、競い続けるのだそうです。

「いろんな植物が競争して、生えて。あるものがある時に蔓延するけど、雨が多くなると別のものが殖えて、カンカン照りになるとそのまた別なのが生えて……、いろいろそういうことがあってですね。何故かはわからないんですけど。そういうのがもう、面白いところですよね」

平易な言葉で語りながら、植物を対象とする学問の面白みを随所に感じさせます。
ここ小石川植物園には、栄華を極める種、競争に負けて没落していく種がひしめき合って暮らしています。そんな環境の中には、一生を植物研究に捧げる分類学者ですら「わからない」ことがたくさんあると、心中を語ってくれました。

「わかってることはほんのちょっと。そういう意味では、素人……って言葉は適切かどうかわからないけど、素人の人が一番怖いんですよ。僕たちはプロだからみんな知っていると思われている。だけどよく見れば見るほど、わからないことは多い。質問がちょっと難しいと僕たちは答えられないんです。本当に、自然は奥深いというか……」

植物研究に関する素養を持たない私たちにも、植物たちの世界に関心を持つきっかけを下さった小石川植物園。

その地で40年研究を続けてきた方が「自然は奥深い」という言葉で一連のお話を締めくくったことには、この地への誘いを含めているようにも感じられました。

「自然の奥深さ」の一端に触れる場所として、ここ小石川植物園はこれからも多くの来訪者を迎え入れるでしょう。その中から、次世代を担う植物研究者や、薬学者を輩出することになるのかもしれません。
そしてもちろん、日本の医療を下支えする薬剤師たちにとっても、魅力的な場所であり続けるはずです。

(文・薪場 竜)

語り手プロフィール
邑田 仁(むらた じん)。小石川植物園に40年間勤めた分類学者で、第二十代・二十二代園長を歴任。研究テーマは「維管束植物の系統分類、日華植物区系を中心とする植物相の解析」。

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